「広軌別線」の東海道新幹線を実現に導いた輸送密度の高さと均一性
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大内 雅博:高知工科大学社会システム工学教室教授
経費を運賃収入で賄うことが基本である鉄道の新増設に際しては輸送量の裏付けが必要である。それが現在の輸送量であるにせよ将来の見通しであるにせよ、
需要の無いところに鉄道は存在し得ない。
東海道新幹線の場合、在来の東海道本線においてひっ迫する輸送量が計画推進の原動力であったことが知られている。ところが、新幹線計画実現のための当時の十河信二国鉄総裁
の奔走についての記述は多く存在する一方で、十河総裁を駆り立てた当時の東海道本線の輸送量(輸送密度)やその推移(増加率)がいくらであったかを記したものは、少なくとも
一般向けの文献には意外と見当たらない。
本稿では、十河氏の総裁就任前年の1954(昭和29)年度から1964(昭和39)年の東海道新幹線開業をはさんで翌1954年度までの、東海道本線の東京〜大阪間の輸送密度をはじめとするデータを少し丁寧に見ていく。
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イギリスにおけるコロナ対応としての鉄道再国営化の背景について
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西藤 真一:島根県立大学地域政策学部教授
新型コロナウイルスは新たな変異株が次々に出現し、収束の兆しは一向に見えない。最初の感染が拡大した当時は収束を期待した「アフターコロナ」という言葉が
よく使われたが、最近ではもはや収束ではなくコロナとの共生を覚悟した「ウイズコロナ」という言葉もしばしば使われる。言葉尻はともかく、そこにはコロナのために
何らかの政策的な対応なり考え方の変化が必要だという認識がある。それが短期的な救済措置なのか、構造的な変革も辞さない抜本的な対応策が必要なのかという
視点がその言葉の背後にあるように思われる。
言うまでもなく、新型コロナウイルスの感染拡大(以下、コロナ禍)は公共交通を担う事業者に甚大な影響を与えた。特に旅客を取り扱う事業者は感染拡大、あるいは
それに対応した人々の外出制限などの影響から、コロナ禍以前の状況への回復は見通せないでいる。このため、各国で様々な経済支援策が展開されてきた。
本稿では、イギリスの鉄道事業に焦点を当てるが、このイギリスの鉄道事業はコロナ禍を受けて、恒久的な再国有化を打ち出した点で注目できる。同じ旅客輸送を担う事業の
中でも、国有化まで踏み込んだ事業はなく、明らかに他の産業とは異なる対応であるように思われる。そこで、本稿ではイギリスの鉄道事業はコロナ禍への
なぜ国有化にまで踏み込んだのか、その背景について検討する。それを論議する中で、コロナ禍によって変容した人々の行動に対して政策立案者はどう立ち向かうべきか
、若干の先行研究の紹介を交えながら課題を提示したい。
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千葉県におけるJRの鉄道需要の変化と空間的特徴
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松崎 朱芳:千葉商科大学商経済学部准教授
本稿では千葉県におけるJR東日本(以下、JR)の鉄道需要の変化を過去25年間のデータを通して把握した。その際には路線や駅ごとの乗車人員について券種別
に整理し、空間的な差異を考察した。
東京大都市圏の一部を構成する千葉県は東京都に近接する地域においては都市的な性格を持つ地域であり、遠方になるにつれて非都市的な性格を有する地域となる。
このような差異は鉄道の乗車人員にも影響をもたらす。その現状は東京都に近接する駅では乗車人員が多く遠方になるにつれて乗車人員が減少する傾向にある。ただし、同じように東京駅に近接する駅であっても、乗車人員の増減に差異が生じる。この背景には路線の運行開始年や施設立地の影響が挙げられる。乗車人数の
多い駅では定期券種のみならず、普通券種の増加が目立ち、余暇等の通勤・通学以外の鉄道需要を増やす傾向がある。
一歩で東京都より遠方になるにつれて各駅の乗車人員は減少する傾向があり、なかには無人駅となる駅もある。東京都への通勤・通学が容易ではない駅においては、地域内
における通勤・通学需要が主となる。特急列車の運行がみられる路線では定期券種のみならず、普通券種の乗車人員も一定数存在する。代替の交通機関が整備されるに
つれて、特急列車の優位性が小さくなりつつある中で、他の交通機関との差別化を図ることが求められる。乗車人員を増やすためには、普通券種による鉄道需要の促進策が求められであろう。
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[近代日本の技術の礎を築いた人々] 第6回 官界と学界と政界の重鎮を果たした教育者 - 渡邉洪基
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大山 達雄:政策研究大学院 名誉教授
わが国の江戸末期から明治維新にかけての時期は混乱期であると同時に、江戸幕府が滅んで明治政府となり、西洋から技術を導入する中では、政、官、民、学のすべての分野で多くの傑出した人材が
出てきた時代であるといえよう。その中でもこれらのすべての分野でひときわ目立った活躍した人物の一人として挙げられるのが渡辺(戸籍上は渡邉のようであるが、本稿では渡辺と記すことにする)洪基といえるのではなかろうか。
本稿では彼の生い立ち、経歴、業績を基に、彼がどのような気持ちで混乱期の日本の中で人生を送り、自己修練の努力をし、日本国のその後の発展に寄与、貢献したかを探ることにする。
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[鉄道施設探訪記] 第26回 亀の瀬地すべりと関西本線(下)
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小野田 滋:公益財団法人鉄道総合技術研究所 アドバイザー
鉄道にまつわるさまざまな施設を紹介するシリーズである。多くの鉄道施設は見慣れた風景の中にとけこみながら、さりげなく存在している。このシリーズでは、そうした日常風景に埋もれた「逸品」にスポットをあて、その「真価」を紹介している。ここに登場する鉄道施設は、誰でもが知る鉄道施設ではなく、
むしろ知る人ぞ知るような物件ばかりだが、このシリーズによって黙々と鉄道輸送を支え続けてきた鉄道施設の存在を再認識していただければ幸いである。
谷崎潤一郎の『鷸鶉隴雑纂』(日本評論社・1936)という随筆集には、代表作の『陰影礼賛』ともに『旅のいろいろ』と題した随筆が収録されている。『旅のいろいろ』では関西本線の汽車に乗って大和路へ行くことが桃の花の咲くころの楽しみとして紹介されるが、そこに「先年地辷りのあった何とかと云う村のトンネルを通り、柏原、王寺、法隆寺、大和小泉、郡山等
の小駅を経て奈良へ行く汽車に乗ってみ給え。」という一文が登場する。この「先年地辷りにあった」とされるのは、1931(昭和6)年末に発生した亀の瀬地すべりのことで「奈良に行く汽車」は関西本線のことである。
関西本線王寺〜柏原間の大和川右岸に位置する亀の瀬地すべりは、同年11月に滑動を開始したため、その直下に位置していた関西本線の亀の瀬トンネルが変形し、翌1月に下り線が、同年2月には上り線が相次いで不通となり、徒歩連絡が行われた。今回は、前回に続き、この亀の瀬地すべりを取り上げ、当時の人々がこの災害にどのように対応したかを振替ってみたい。
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